ターンオーバー
真夜中ごろ、シャッターの半分閉まった日曜日の飲み屋街を抜けて閑静なハイツの階段をのぼる。
ピコンと通知が鳴る。
液晶には「203ね!鍵あけといたから」の文字列。
203号室の戸の前に立つ。一年半前のことを思い出したりして。
お邪魔します。と呟きながら戸を開け、僕は他人のプライベートスペースに侵入した。
玄関の小瓶が放つどこか懐かしい花の匂いと、微かに残った煙草のにおいが入り混じる。
「わ、何その髪の毛!ほんで若干黒いで君!」
居間に入ってすぐ僕を指差して人は言った。この人はいつも子供のようにケラケラ笑う。
僕は調査で海外に行ったこと、突然連絡して申し訳ない旨を少し笑い混じりに返した。
「あ、ほんでか〜!黒いのあんまし似合ってへんな!」発泡酒を片手に人は言う。
うるさいすよ、ちょっと気にしてるのにと僕は呟き返した。
この人は歯に衣着せない。歯どころか心にも何も着せてないかのように、思ったことを有りのままに言動に出す。鋭い発言はいつも僕の心を突き刺す。そしてこの人はケラケラ笑う。
ーーーこの人と初めて会ったのは繁華街のある飲み屋さんだった。当時はその物言いは宿酔してるためだと思っていた。しかし酔いが冷めてもその鋭さは変わらなかった。
クルトガみたいですね、と冗談を言う僕に
「ん、何それ?知らん知らん!ジェネレーションギャップー!」と無邪気に笑っていた。
「あ、冷蔵庫の午後ティー飲み!コップ、シンクの下の棚!2つとって!」
思い出したかのように人が叫く通り、僕は赤い冷蔵庫を開けた。中には発泡酒、発泡酒、きゅうりのキューちゃん。それと1.5リットルのミルクティーが3本。
うわ、酒飲みの冷蔵庫〜と言う僕に「な、私の家やねんから好きにさせろ、はよとれ!」と人はこちらを向かずに返す。
人は録画したバラエティ番組を観ていた。
ミルクティーを切らせたくないとか、芸人バラエティは録画してでも絶対に観るとか、水道代高くても湯船には浸かりたいとか、そういう、生活へのこだわりが自分と似ていて、一緒にいて居心地が良かった。
トクトクトクとミルクティーをコップに注ぐ。
液晶からかまいたちの声が聞こえた。YouTube始めたらしいっすね、と言うと
「あ、佐藤健も始めてんで!」「そう、佐藤健といえばユキビデオ4買ってん!」「で、最近は何聴いてんの?まだクリープ?」
この人は本当に好き勝手話す。YouTube→佐藤健→るろうに剣心→そばかす→ジュディマリ→ボーカルのYUKIさんの新作DVD、という思考回路が分かる自分も少し嫌で、僕は苦笑した。
チャットモンチーとナンバーガール、全然タイプちゃうけど最近よく聴きます。
人とテレビを隔てる机にコップを置き、僕は答えた。
「ほら!他人と同じ嫌とか言ってインディーズ聴くくせに最後は王道に戻ってくるやん!ださ!」
またケラケラ笑われた。人間の人間臭い部分をそのままに捉えている気がして言い返せない。僕はこの人の言い回しと話のテンポが好きだった。
ミルクティーとバラエティをお供に、僕らは近況を報告しあった。
前の店を辞めて、三駅向こうのアパレルで仕事を始めたこと。飲み屋であった不動産関係の人にこの部屋を紹介してもらったこと。相変わらずアメスピの5mmを吸っていること。
僕からは大学院生活のこと。前よりも1人で飲み屋に行く機会が増えたこと。将来への漠とした不安のこと。
「うん、やっぱ真面目やわ!アングラな世界も知っててちょいミステリアスですよ感出そうとしてるのがもう真面目!バレてるバレてる!無理してるやろ?」
また何も言い返せない。背伸びしている自分を見透かされたよう気がした。この人の前では有るがままの自分をさらけだすしかないのか。
「まあ、いいとこなんちゃう?悪いとこでもあるけど、アハハ」「ね、なんか懐かしいな!」
人は珍しくフォローの言葉を口にした。いや、これが本音なのだろうか。
「あ、味噌汁飲みたい!豆腐がいい!」
本当に自由な人だ。
具ないでしょ、コンビニ行っていいですか、と返した。僕の頭は「無理して背伸びしている自分」でいっぱいだった。
ーーー2018年の春、僕はこの人の一つ前の家に入り浸っていた。
きっかけは飲み屋の店主からつぶれたこの人を自宅まで送る任務を与えられたことだった。
あ、こんな漫画みたいなことが現実に起きるんだと思ったのをよく覚えている。
聞いたことはあるが聴いたことのないアーティストのCDでいっぱいの棚、空いたスペースにちょこちょこ置かれた猫の小物、ほんのり香る煙草のにおい。
それと、この人の物言いや言い回し。全部が妙に大人に思えて、そして何故だか居心地が良くて。
「ふ、物好きやなあ!話し相手おらんくて寂しいし、好きな時においでや!」
この人の寛容さにも助けられ、院試の勉強用の書籍を何冊か鞄に入れ、僕は実家から10分程の電車で週4日ほどその家に通っていた。
夏が終わる頃まで半分居候だったのが申し訳なくて、僕は昔家庭科の調理実習で覚えた料理をたまに作ったりしていた。
「わ、味濃っ!ええやん美味しい!」この人は僕の味噌汁をよく褒めてくれた。多分味覚が似ていたんだと思う。
「あ、そっか!ほんならセブイレ行こか!」
一緒に行くんですか、1人で行けますよ、と言い切る前に人は黒いブルゾンを羽織ってしまった。
「あ、またそんな時間かかる靴履いて!可愛いけどね!」
コンバースのハイカットの靴紐を結ぶ僕を横目に人はツッカケに足を入れドアを開けた。
まさかこんなとこで終電なくすと思ってなくて、聞いているかは分からなかったが僕は言い訳を吐いた。
暖かくなってきたとはいえ、夜はまだ少し肌寒かった。
外灯の明かりに照らされ、空を見上げても星なんか全く見えない浅葱鼠色の夜道を僕たちは手を繋いで歩いた。
ーーー「ね、異性と手繋いだらやましいと思われるのなんでやと思う?幼稚園の散歩とか離すさんように注意されたのに中学高校あたりから意識しだすよね!芸能人の手繋ぎデートの報道とか単にデートしてたでええと思わへん?大人なっても青春引きずってるみたいでなんかダサくない?」
昔この人とした話題を思い出す。
同時にこの人と会わなくなってから聴くようになった『スカートリフティング』という曲が頭を流れた。
曲名は文字通りスカートめくりを意味している。
男子児童はスカートめくりに精を出し、中学生男子は性行為を夢見るが大半は叶わず夢で終わる。
しかし、高校生大学生と歳を重ねると性行為がどこか身近な生活の一部になっていく。
そんな自分が価値を置くものが数年でころっと変わってしまう十代の心境の変化がフェチシズムを刺激した。
そんな様なことを作詞作曲をも担当するバンドのボーカルがどこかで口にしていた。
手繋ぎをやましいと感じるのもどこか似ている気がする。
"周りがそういうから" "みんなそうだから"
ある環境で多数派に善しとされる価値感覚を若い頃の僕たちは鵜呑みにし、少数派を排斥する。
しかし、自分がどうしたいかを考えられる歳になり、改めて考える。やましい気持ちがなくとも手を繋ぎたくなる感覚が僕には分かる気がした。
ただ、ありがとうとかごめんねと言うように、しかし言葉に出来ない気持ちを伝えたいとき、僕たちはどちらかがもう片方の手を取った。
あのとき、僕は何て返しただろう。二年ないし一年半前が随分と昔のことに感じた。
「あ、そうそう!表皮で新しく出来た細胞って4週間とかそこらで角質になるねんて!ターンオーバーってやつ!不健康やと周期が遅くなんねんて!」
いつも話題が唐突に変わる。しかし今度は回路が読めなかった。一つ前の話題はなんだっただろう。
額にしわを寄せ考える僕を見たのか見てなかったのか、人は話を続けた。
「だから、その内肌黒くなくなるんちゃう。真皮とか皮下組織まで焼けきってたら知らんけど(笑)」
「ほんで、将来もそんな気にせんでええと思うで。不安も多分、ほら細胞みたいにさ、1ヶ月もしたら身体の外出てくよ。完全に私の経験則やけどな!」
ああ、そうか。
この人は僕を心配してこの話をしたのか。
衣を着ないありのままの発言はいつも鋭く僕の心を突き刺す。
しかし心の臓まで深く突き刺すわけではなく、ときに静脈注射のように優しい励ましや鼓舞を僕の身体に置いていく。
こんな時間にコンビニ向かってる不健康な奴は1ヶ月以上かかりそうですけどね。
そう呟いて感謝を伝えようと思ったがどこか伝えるのが恥ずかしくて、僕は繋いだ手を少しだけ強く握った。
親友とか友達以上とか意味のない定義づけは置いといて、ただ同じ時間を共有したいとだけ思う相手もいるんだと僕は思う。
豆腐と刻み葱と805番の煙草を買って僕たちは踵を返した。
明日は朝ゆっくりなんですか?
「そ、遅番!10時半に家出たら間に合うねん!なんせ立地がいいからね!立地が!」
それはリッチですねと言うくだらない冗談は無視されて、ビニール袋を断ったからお互い片手に葱か豆腐を持って、来た道とは違う道で帰った。
朝から研究室行くつもりやったけど昼からにしよう。心の中で呟いた。
ふと見上げた空には今度は小さな星がひとつ見えた。
雨降る朝に
―――「〇〇くん、6,700円!」
早朝5時、店員さんの声が聞こえる。朝までお酒を飲んでいた。
頭が痛い。こんなにお酒を飲んだのは久しぶりだ。
午後11時、帰路の途。たまにお酒を飲みに出る街の改札を抜けた。
「現実飛ばしたいねん、酒の種類とか味とかなんでもええねん」
酒の相手をしてくれるお兄さんがよく言うフレーズだ。たくさん酒の種類があるバーでなんて勿体無いことを言うんだと思っていた。
だが今日はその気持ちが分かった。現実から離れたかった。
最近研究の進捗が芳しくない。研究に向きあう時間をかなり増やしていた。しかし、考えども考えどもしっくりくる位置づけが見つからない。焦っていた。
「焦ったらあかんで、研究楽しむこころを失くさんようにね」
指導教員から言われた言葉だ。言葉通りに呑みこんではいけないと思った。なぜなら、それは5年間研究を続けるような、時間のある学生に向けられた言葉であるからだ。
現実を考える余裕がない状況に身を投じ、同時に身体の中に溜まった膿のような気持ちを吐き出せたら。そんなことを思って繁華街を闊歩した。方法はなんでもよかったが、飲酒という手段しか浮かばなかった。
いつもの飲み屋さんに入った。
「あ、〇〇くん!」最近よくみる店員さんだ。
お客さんは一人。いつもいるお兄さんや飲み友達の姿は見えなかった。
潰れるにはちょうどいい環境だ。
KOZUEという大好きなジンを頼んだ。
しばらくの間店員さんと会話を交わしたりお客さんの様子を観察したりしていた。
客足は絶えることなく、人人が入っては出てしていた。
飲み屋という環境は素晴らしい。目的は違えど様々な人が一堂に介し言葉を交わす。
本名を名乗らず通り名を使う人、職業を明かさない人も多く、ただ自分の好きなカルチャーやたわいもない話をする。
これといった趣味のない僕はこの場で人人を傍観しながら知らない話題を聞いているのが好きだ。また時に話に入り、普段出会わないような種の友人知人が出来るのがこの上なく新鮮でたまらない。
「今日はバッジもオーバーオールもしてへんねんなあ」
丑の正刻、隣に座った男に声をかけられる。
「久しぶりやなあ、なんか雰囲気変わったなあ」
32歳の営業職の人だ。僕は飲み屋で興味をもった人のプロフィールをよく覚えている。忘れられないという方が適しているかもしれない。
彼が頼んだウイスキーと同じものをロックでもらった。初めて飲む銘柄のそれは酒気が強く今の自分にはちょうどよかった。種類はどうでもよくたってアルコール度数は重要だなと呟いた。現実飛ばしたいんですと受け売りの言葉を吐く僕に彼は「ほな飲もうぜ」と付き合ってくれた。
「変な意味抜きにして人間の部位でどこが一番美味しいと思う?」「明日女装コンテスト横の店でやるらしいで、おれが可愛くしたろか?笑」
彼との面妖な話題は少しずつ僕を現実から遠ざけた。
カランコロンと戸の鈴が鳴く。
「おう、〇〇くんやん!あ、そや前言うてた分析の話やねんけどさ―――」
一気に現実に引き戻される。この人は僕の10こ上のあるメーカーで研究職をしている男だ。
半年前くらいから顔見知りだったが、2,3週間前に話す機会に恵まれた。
僕の研究対象は産業廃材を利用したおもちゃだ。当時、僕は廃電線や廃ケーブルから取り出したと思われるワイヤーの素材が何か気になっていた。
3か月もあった調査だが、おもちゃの基本的な特徴すらも完全には明らかに出来ていなかった。
「あ、それやったらEDX分析で元素量と種類はある程度特定できるで」
そんな中、この人は研究を進めるヒントをくれたのだった。
「実験器具、前は業者にお願いしたらって言うたけど、自分の研究科になくても他の工学系の研究室とかから借りられるんちゃうかな」
あ、ありがとうございます。指導教員が持ってるみたいですわ。
とてもありがたいアドバイスだが、今は多くを聞きたくなかった。先程覚えた酒を胸の前で回しながら笑顔で答えた。
素材が分かって何になるのだろう。僕は自身の研究の大きな目的、いわば研究の価値を言葉に出来ていない。3か月必死に目の前にあることを説明できるよう定量的にも定性的にもデータを集めたつもりだった。目の前にあることに躍起になった結果、自身の研究の意義をこれまでの研究の中に位置づけることを出来ずにいた。
博物館学におけるアートの捉えられ方、地場産業の形成や発展、職能集団の技術伝播伝承に関する研究、どの文献も自分の研究の固有性をクリアにするヒントを与えてはくれなかった。
「シャンパンあけるか」
他のお客さんがおもむろに言った。店員さんの誕生日が近くだったのだ。
助かった。胸をなでおろして丁寧に分けられたシャンパンを口にした。
―――「1万円やから、大きい方が3,000円と、、はい300円!今日もありがとう!」
店員さんから受け取った釣銭をポケットに押し込みビルの外に出た。
薄暗い中、ぽつぽつと小雨が降っていた。コンビニでお笑いライブのチケットを払い戻し6,500円を得た。カップ麺と水を買い、露に濡れたガードレールの上でまだ硬い麺をすすった。
頬をしたたる雨が全身のけだるさと研究への悩みを洗い流してくれる気がした。
現実から離れることは出来ていなかった。飲み友達のお兄さんも仕事に対してこんな気持ちを抱いているのだろうか。ものに向き合うというのはときに楽しく、しかし結果が出なければこうも苦しいのか。
ぴちゃぴちゃぴちゃ。。
クリーム色の床にカップ麺と胃酸の混合物が広がる。
気付くとそこは地下鉄の車内。席に坐す僕は、床に吐瀉物を撒いていた。
やってしまった。乗客たちはこちらに見向きもしない。酔っ払いが土曜の朝の電車で起こすことなど今更目新しいことではないからだ。しかし迷惑をかける当事者になったのは初めてだった。
すぐに電車を降りた僕は駅員さんに事情を話し頭を下げた。
「終点の駅員に伝えておきましたんで、清掃してもらいますね。え、いや謝罪の品とか結構ですんで、誰にでも辛い時はありますよ。」「まだ顔色よくないですけど休んでいきはりますか?」
なぜこんな自分に優しくしてくれるのだろうか。
駅員さんへの感謝と、この年になって人様に迷惑をかけ何も償わない自分への情けなさが入り混じり、僕は嗚咽した。
最寄りの駅の改札をぬけた。時計の針は10時22分を指していた。
曇天と駅の静けさで気づかなかったが、いい時間だ。頭が痛い。たまに身体の底からこみあげてくる酸が心地悪い。
昔一人で来た人気のない公園のベンチに座る。側溝に反吐を散らしさっき買った水で流した。
――今日は動けないな。申請書は明日明後日で書ききらないとな。今日は構成の構想を...
吐けども吐けどもそこにあるのは現実だった。
研究への悩みは体内に溜まって吐き出せるような種のものではなかった。
それは、形の気に入らない自分の鼻や伸びなかった身長のように。現実のように。
いつまでも向き合い認識を変えることしか出来ない、そういった類のものなのかもしれない。
公園のブランコが揺れている。雨がカバンに飛んだ反吐を洗い流した。
耳にイヤホンをつけ2012年に解散したバンドの曲を聴く。
死んでしまうということはとても恐ろしい 明日を真っ当に生きることの次に恐ろしい
俗世を独特に表現するボーカルの声が体内を廻る。
これが現実だ。向き合った先に逃避出来る余地が見つかれば。
そんなかすかな希望を頭の片隅におき、今日も僕は現実を生きることにした。