数%のスーパー銭湯

日々考えていることを一部、なんとなく言葉にしておく

しばらくお休みします

いつも見てくださりありがとうございます。

 

この投稿は

恐らくこのブログを見てくれてはる昵懇の知人達に向けて、という性格が強いです。

 

 

実は8月中に15本投稿しようという密かな目標がありました。

ものを書く時間を意識的に取りたかったためです。

 

大学院1年目の自分にはアウトプットの機会が少なく、文章力の保持向上のため8月は意識的に投稿を増やそうという狙いがありました(情緒的に書いた回もいくつもあり寧ろそっちの方がいい文だったりしますが)。

 

 

数日前に他の選択肢が浮上し、ブログよりそちらを優先したい意思が強くなったため、目標達成しておりませんが一旦こちらをお休みしようと思います。

 

 

誰への報告やねんって感じですが、8月に入ってからは連日10-20件近くのアクセスがあり嬉しかったので、読んでくれてはる密かなスーパー銭湯ファン(?)の方々へ向けての内容です。

いつも見てくださって本当にありがとうございます。重ね重ねお礼申し上げます。

 

 

いきなりですます調で他の投稿との一貫性がありませんが、まあそんなもんです。なんとなくです、全ては。

 

当面、学部時代の卒論の一部を雑誌に投稿すべく、論文執筆という形で研鑽を積もうと思います。

論文とここへの投稿は全く毛色の違うものなので双方しっかり取り組んでいきたいところですが、不器用な私は片方で手一杯になってしまいます。そこでまずは前者に集中しようという魂胆です。

 

 

このブログには1ヶ月半〜2ヶ月ほどで帰ってくる予定ですが、しばらくは意識下の外へ置きます。

 

 

こういう節目の投稿をしないとダラダラ惰性で中途半端に過ごしてしまう性分ですので、ご理解いただけたらと思います。いや誰が興味あんねんって感じですが。

 

ここ数日夏バテと幾ばくかの悩みとで精神的にまいっておりましたが、切り替えて精進していけたらと思います。

 

どこからどなたがこのブログに来てくれているのか分かりませんが、いつも見てくださっている皆様、お互い頑張りましょう(上から目線に見えたらすいません)。

 

力をつけて戻ってこようと思います。

それではまたここ、数%のスーパー銭湯で。

揚げ足取りが揚げ足になる

私は性格の悪い人間だ。
今から揚げ足をとる。そして只、私の価値観を用いて人の考えを否定しよう。

 

昨日、理想を置くことの効果はどの程度か?(あまり効果がないのでは?)という意の投稿をした。

iambe.hatenablog.com

 

この考えを投稿した背景の一つには、LINEでふと投げかけた同様の問いに友人が返答してやる!と言ったことがある。

彼からの返答が以下の記事だ。

moji-village.hatenadiary.com


主旨を三文でまとめると、


①理想を持たずしては小さな一つ一つの作業の意味を見失うため、人は淡々と目先の問題解決だけをこなすのには向いていない生き物であるように思う。

②しかし、<理想という病巣>で述べたように、理想には苦しみが伴う。

③だから両者をいい塩梅で使い分ける必要があり、理想のあるなしに関わらず強い軸(自分が成長したい、社会を変えたいなど)を持っていこう。

という話だと解釈している。

 

 

上記の考えに概ね同意である。
いくらかのレベルの理想がなければ、その時々の行動の意味を見失いかける。
そのため、理想が全くないというのは精神衛生上あまり良くない。
言うは易く行うは難しであるが、「いい塩梅」で理想から降ろした演繹的な意味づけと目に見える課題から帰納的に導いた意味づけを使い分け行動することが肝要である。

 

 

しかし、些細な点でいささか疑問が浮かぶ。ですので揚げ足をとる。

大きく2点に言及し、「大きな理想を持つ効果はなかなかに薄い」と主張しよう。

性格悪くて本当にすまない、もんじゃ君。

 

 

一点目に、人間は冷血にはなりきれないため、身近な問題解決を繰り返す方法には適していない、という主張である。

頑張る理由を明確にするために精神安定剤としての理想が必要だ。という理由づけがされている。

 

しかし、身近な課題を解決することこそ最も簡単な”成長”であり、達成感を直ぐに得られる「精神安定剤」ではなかろうか。私はそう思うのだ。

身近な課題解決の繰り返しと書くとどこか無機質で目的意識のない行為に思える。
しかしながら、ある課題を解決しようとする営みには大きな理想とは言わないまでも、小さな目標(〇〇が出来るようになる・分かるようになる)が付いて回る。何もマシンのように冷血になる必要はないのだ。これほどシンプルで頑張る”理由”が明確なことが他にあろうか。

 

目の前のスライムとモーモンを倒すために「大魔王討伐!」という理想が必要だろうか。「こいつを倒すことに”なんとなく”意味がある」と直感的に思う。そして小さな目標(この魔物を倒して経験値を得よう)を置き戦いに挑む。それだけで十分でなかろうか。

理想のあるなし如何に関わらず、レベルアップすれば自分が出来ることが増える。これを繰り返してレベル40やそこらになり、魔王の手下の中ボスを倒したあたりで、「あ、そろそろ魔王倒せるかもな」と思う。そしたら次の目標として「魔王討伐!」を掲げる。そんなもんな気がする。

 

これは私がどこか諦念に至っている部分が大きいのかもしれない(諦念は理想なしには定義できないという話はさておき、)。

 

 

 

二点目に、軸や強い意志(自分が成長したい!・社会を変えたい!)を持てば理想と現実のギャップに苦しむ修羅道もいくらか楽になる、と言う点だ。
言いたいことは分かったつもりでいる。しかし、私が「理想」の定義を簡単にすら示さなかったため、認識に齟齬を生んでしまった可能性がある。

思うに、彼の言う「軸」や「強い意志」も私の考える「理想」と大差ない。
つまるところ、双方「今の自分に出来るかは分からないが、達成したい目的」であるのだ。

 

この軸や強い意志の形成過程に思いを馳せてみてほしい。
すると、それらは自分の経験から帰納的に導かれた概念であることに気付くだろう。


「成長したい」とか「社会変えたい」と思うことは、何か大きな理想から演繹的に降ろして考えたものではなく、自分のこれまでの経験(人によるだろうが、敗北や不満)から出来た小さな目標を抽象化して大きな目的にしたものだろう。

 

つまりは、<理想という病巣>で書いたのと同じく、これからの思考・経験次第で十二分に変わり得るのだ。そんな大きな理想を掲げること自体にどれほどの効果があろう。

 

妄想に思いはせることもアイデアを生むために肝要だが、そこに固執して夢や理想を語るだけの人間になってはいけないと思うのだ。もんじゃがそうだと言いたいわけでは決してないが。

 

 

だが、大きな理想なくしてはダメだと近年多くの人が思い込み、行動する前に妄想し、しかし経験がないから納得感のある理想を帰納的に立て切れず、どこか疑問を持ちながら見せかけの意味のついた行動をし、架空の理想に虚無感を抱き、苦しくなる。

 

あまり手の内を明かしたくないが、こういった世を風刺したい欲が<理想という病巣>を書いたもう一つの背景にある。

 

 

 

 

小さい目標を立てて出来るだけ無理せず、目の前の課題を解決する。
そして自分の出来ることを増やし、時たま「あ、自分にももう少し大きなことが出来るかも」と手の届きそうな目標を描いてみる。


そうすれば、いつ手が届くか分からない・もしかすると永遠に届かない、大きな理想を掲げて無力感を感じすぎることも苦しむことも少なくなるのに。


イメージを膨らますのに夢を描く力は要るが、しんどくなって何もしなくなるくらいなら大きな理想を無理に持たなくていい。そいつに大した良い効果はないのだから。

 

 

 


そんなもんだろ、と丁寧な諦念を持ちながら”なんとなく”を重んじる私は、きっと現実に紐付きにくい「いいね!そうなったら素敵だね」話が頗る苦手なのだろう。

それをこんな形でしか表現できないのが悔しい。
もっとユーモアを持って面白いのにどこか突き刺さる、そんな”エロさ”を持った表現をしていきたいものだ。

 

 

そして、こうやって揚げ足をとってもきっと友人は一度受け止めてくれるのだ。
彼はきっとそういう心の広さを、背中の広さと共に併せ持っている。

なんとありがたいことか。

 

 

そんな打算的な揚げ足取りのこの投稿も、きっと誰かから見れば取りやすい揚げ足なんだろうな。

 

 

 

 

理想という病巣

目的地のころころ変わる旅行計画に時間をかけたいと思うだろうか。


ある国の中で行きたい地域が変わる程度ならば”楽しい”で済むだろう。では「香港に行こう」と計画を共に立てていた友人が、3日後には「いややっぱりロシアだ!」と言い出したらどうだろう。予算繰りやせっかく調べた観光スポットにも行けないと少しがっかりするだろう。しかしまあ、友人と行くならどこでも楽しいよねと自分に言い聞かせりゃ楽しい。それではそのまた3日後に「いややっぱ時代はアフリカだわ!ウガンダ行こ!ウガンダウガンダ!」と言い始めたらどうだろう。「この1週間は何だったんだ、時間もったいねええ」と多くの人が思うのではなかろうか。

 

 

今日したいのはこういう話だ。
「大きな理想を掲げることにはどれほどの意味があるだろう。」


近頃ツイッターなどのSNSでプロフィールに自分の肩書や目標などを明記するアカウントが多くなってきた。その中でよく見られる文言として「〇〇な社会の実現を」といった自身の問題意識が解消された社会を文言化したものがある。

社会問題を解決したいという心意気は立派なものだ。
誰しも「こういう問題なくなったらええな」と思うことはあるがなかなか行動に移せない。その解消のために自ら足を動かそうというのだから、こんなにかっこいいことはない。

しかし多くのアカウントが数か月~1年すると全く別の「〇〇な社会」の実現を目指すようになっている。当初言っていた問題意識が解消されたのではない、ただ彼ら自身の問題意識の向かう先が変わったのだ。

このように大きな理想というのは変化しやすい。
読者の皆さんも一年前二年前の目標を思い出し、今ご自身の掲げている理想や大きな目的と比べてみてほしい。きっと考えていることはかなり変わっているのではないだろうか。


理想が変化しやすいことは理想の立て方に大きく起因していると私は考えている。

①人間は理想を立てる際、演繹的に理想の社会を描き、それと現在の社会を比べてそのギャップを埋めるような理想・目的を掲げる。

②あるいは、帰納的に自分の出来ることから類推して理想・目的を立てる。


実際はこの双方を極とした振れ幅のどこかに位置するのだろうが、どちらかの局によりすぎると問題が発生する。

①の演繹的な方法で立てた理想というのは、多くの人から共感を呼びやすい。それは”世界平和”と聞いて多くの人間が悪くは思わないと同じで、ある種の共通善のようなアウトプットになりやすいからだ。
自分自身の経験を(ほとんど)反映しない只ロジカルに演繹的に降ろした理想は誰しも似たようなものだ。人間の思考レベルなど所詮その程度なのだろう。

 

 

そのため多くの者が②自分の能力・問題意識から帰納的に理想を立てる。しかし、自分が今後どのような能力を身に付けるかなど深いところまで想定するのはかなり難しい。

 


「〇〇大学合格!」と意気込んで当初やると決めた教材を全てクリアした人間など恐らくこの世にいない。途中でもっと緊急で対策が必要な別の課題を見つけたり、当初リストアップした教材に重複部分があったりするからだ。皮肉にもやり始めないと自分がどこまで出来るか見当もつかないのだ。しかし、多くの人間はやる前に計画を立てる。

 


だが、教材を終えてなくとも合格する人間も多く居るし、反対に不合格になる人間も多く居る。これには想定しきれないかなり多くの要因が関連しているが、恐らく「〇〇大学合格!」と掲げた理想はあまり影響を与えていない。なぜならその理想から降ろしたマイルストーンを踏み切ったものなど居ないからだ。


というのが私の見解である。そして
近年鬱っぽくなる人が増えてきていたり、”自己肯定感”が低いという言葉が一般化してきた原因のかなり大きい部分に「理想と自分のギャップ」があるように思う。
「理想を立てなきゃ!」と意気込んで意識的・無意識的に立てた理想、それから降ろした目的や目標に自分の能力が追い付かず、日々立てたノルマに届かず「ああ私はだめだ」「いつまで立っても理想の自分には近づかない」と無力感や劣等感を深刻に覚え始めるとだんだんしんどくなる。人から聞く話からも私自身の経験からも強くそう思う。

 

 

もっともっと対症療法的にその時々で浮かんできた課題を克服する形で小さな目標を立てたら良いのだ。
11月に海外でフィールドワークか、取ったデータの分析方法とデータ集める手段としての言語が弱いな、ベイズ統計と英語の話す聞く、ベンバの語彙やるかあ、じゃあ何から始めよっかなあくらいでいい気がするのだ。

 

大学院に居てよく聞く話が最初は皆”キラキラ研究”をしようと入って来て、実際調査に行き地に足の着いた研究課題に落ち着くという話だ。多くの学生が当初「国際協力がしたい!」「環境と人間のあるべき共生の形を模索したい」などと言い入ってくるが、結局どのように進めていいか分からない。それよりも調査でいざ現地に着くといかに自分が無力かを知る。

 

多くの論文だってそうだろう。論文では「はじめに」の次あたりで述べられる研究目的だが、実際は結果が出た後に後付け的に付けられたものが多い。というか調査結果と調査目的が相互に連関しているため、結果が出た後に目的自体に若干の修正が必要であるのだ。

 

そうであれば尚更大きな理想を立てる意味が分からなくなる。
小さいなんとなく明らかにしたい種を少しずつ少しずつ地道に探って自分なりの意味づけをし、それらを集めて何か普遍的(に近い)なことを言う。

研究の実態は今肌感覚で覚える感じではそんなところだ。

 

 

 

 

 

しかし、この文章自体が大学院に入学して数か月の坊やが書いているという点で、自分の感じる実態は根拠として薄すぎる。

更に言えば、私は大きな理想を持てないことにコンプレックスを抱いてきた人間である。自分の弱さを認めるなら只々自分を正当化したいだけなのかもしれない。

 

 

きっと演繹極に振り切った理想主義者には、

「理想が意味ないように感じるのは、君にロジカルに現実的にマイルストーンを設定する力がないだけ」と理想的な批判を浴びるのだろう......

 

性格悪くてごめんなさい。

 

 

 

 

 

 

鼻糞を食うのは汚いか。

「そんなん食べたらあかん!汚い!」

お姉さんが叫く京阪の車内。言われた当の本人はバタバタ足でケラケラ笑み母親の顔を見つめる。

 

よくよく思いを馳せると何が「汚い」のだろう。

 

記憶が正しければ鼻糞とは体内に侵入しようとしたウイルスや雑菌を白血球や体液が倒した残骸である。

確かに元々は体に悪影響を与え得る微生物であるが、その残骸ということは殺菌が済んだという見方もできる。無害なものと体液が入り混じり乾燥したものだと捉えることも可能だろう。

 

そう考えると、口に湧いてくる唾液を飲み込むのと殆ど変わらないのではないか。

そうであるなら鼻「糞」というネーミングが想起させる「汚い」イメージそのものが正体なのかもしれない。

 

 

では、「汚い」とはどういうことか。

 

「沼にはまり靴に泥がついた、汚い」

「ズボンにペンキがついた、汚れちゃった」

「あのシャツシワシワよ、汚らしい」

 

これら衣服に関する「汚い」「汚れ」は恐らく「理想とかけ離れている状態」を指し示す。

 

清潔感がある格好を目指す人々が、買いたて新品を理想の状態だと捉えていると推測すると、"泥がついた"、"ペンキがついた"、"シワがある"は、服屋のマネキンの着る状態からは大きく離れている状態だと分かる。

 

しかし、ヴィンテージ加工・ペンキ加工・ウォッシュ加工などがなされた、あえて使い込んだようなデザインで作られる衣服も少なくない。

古着が人気を博しているのも恐らく近い共感覚がある。

 

これらを好む人からすると、理想の状態は綺麗な新品ぽい状態というより、こなれた感や他とは違う独特な雰囲気なのだろう。

"泥がついた"、"ペンキがついた"、"シワがある"といった状態は、見た目に清潔感がないと捉えられることもあるが、彼らにとっては、綺麗に洗ってあり衛生的に人体に有害なものでなければこれらの衣服は「汚く」ないのであり、寧ろ自分の醸し出したい雰囲気を演出する優れたツールなのである。

 

 

では、

金に「汚い」や、

字が「汚い」、「汚い」表現、意地「汚い」

といった表現はどうだろうか。

 

これも同じく「理想とかけ離れている状態」を「汚い」と呼ぶのだと考えられる。そして「汚い」の対置として理想的な状態を「綺麗」と形容しているように思う。

 

金に「汚い」、意地「汚い」は、

何かに執着・固執しない、誰かから見て快い人々の性格を「綺麗」だとし、その対極に位置づけられた言葉であろう

 

字が「汚い」のはお手本としての「綺麗な」字があるからであり、「汚い」表現と呼ばれる表現は、誰かが決めた「綺麗な」表現と暗黙下に比較されて位置づけられている。

 

 

私の乏しい語彙で考え得る限りでは例外的な事例表現はない。

 

それでは鼻糞の例に当てはめて考えてみよう。

人体に害がないものを「綺麗」と捉えるなら、無害な鼻糞は「汚く」ない

 

考えようによってはお母さんの指摘は正しくないのだ。

そうするとやはり鼻糞が鼻の「糞」であることが厄介だ。鼻の「糞」であることが母親に鼻糞が「汚い」イメージをもたらしているのだろう。

 

なぜなら「糞」は殆どどこにいても基本的に「汚い」のだ。彼らが唯一鎮座できる便所・トイレ・肥溜めですら、定期的に流す、清掃することが必要となる。

 

そうした「糞」の持つ絶対的な「汚さ」ゆえに、体内の老廃物を元にしているという点で共通する、「鼻糞」「目糞」「耳糞」を絶対的に「汚い」ものとして位置づけられているのだ。

 

鼻糞達からすれば溜まったもんではない。

糞自身が、いや糞を「汚い」ものとして位置づけ、更には他と同一視した私達人間が目糞鼻糞耳糞に謝るべきである。

 

 

 

 

とはいえ、「汚くない」からといってはなくそを口にするのはどうかと思うけれども。悪くないけどええこととはまだ言えない。引き続き検討が必要だろう。

 

うーーんやっぱりタイトル自分で見ても汚く感じる。

リンガーハット -Rings are hunted-

リンガーハットというちゃんぽん屋がある。

手ごろな価格帯で野菜のたっぷり入った長崎ちゃんぽんを食すことが出来る、一人暮らしの大学生にはありがたいファーストフードチェーン店だ。
現在全国に650以上の店舗があり、路面店だけでなく、フードコートなどに店を構えるケースも珍しくない。

そんなお手軽ちゃんぽん屋さんを私が初めて知ったのが昨日のことだ。
大学の友人宅で10時過ぎに目覚めた私は、昼ご飯を喰おうと家主と共に河原町に出向いた。「ちゃんぽんでも食うか、リンガーハットかなあ」と寝ぼけ眼で口にする友人の言葉に私は心躍らせた。

昔からちゃんぽんが好きだ。
あんなに沢山の野菜の中に海老や烏賊、蒲鉾、などの海鮮類が潜んでいる。きくらげもいる。
麺とスープをメインに楽しむ他の麺類とは違い、具材・スープ・麺の色んな食感・色んな味が入り混り、しかし喧嘩することなく「ちゃんぽん」として確立した味を保っている。野菜と魚介と麺類が好きな私からすると、オールスターが一堂に介すような感動的な料理であり、中華屋やコンビニの冷凍食品コーナーで真っ先に探す逸品なのだ。
そんなスマブラ的料理をだ、月曜のお昼から食べられるのだ。何と嬉しいことか。

ウキウキしている私を見て友人が一言。



「そんな期待して行くとこじゃないぞ?」



「え?ちゃんぽん屋さんってなかなか無くない?」

 

「いや、リンガーハットだよ?どこでもあるだろ」

 

「嘘やん!? 初めて聞いたわ!絶対関西にはない!関東が多いだけや!!」

 

 

こういった問答の果て、「リンガーハット 大阪」で検索するとだ、出身の八尾市にはないもののあべのハルカスや心斎橋OPAといった大阪人がよく行くデパートやショッピングモールには腐るほど有るようなのだ。

いやいやそんなはずはない!と「リンガーハット 知らない」で検索する。しかし出てくるのはマツコの知らない世界でリンガーハットが紹介されたことばかりなのである。

なんということか。その後四条河原町リンガーハット店内で「リンガーハットを知らない男」として友人から散々いじりを受けた。

 

マクド程ではないけどココイチ知らないのと同じようなもんだぜ?笑

リンガーハット知らないのは庶民の味を知らん金持ちの家の子だな!笑

 

だのなんだの言われ、大阪出身の他の友人にLINEを送るも、
「うちの市にはなかったけど、知らんことはないなあ(笑)」といった具合だ。

なんだなんだ、、、くそぅ。

 

こうして私はリンガーハット論争に敗北を喫した。ちゃんぽんをなかなか手の届かないごちそうとして神格化していたのは私だけだったのだ。

 

「ろうそく(私の星)の人は自分の見たいように世界を見るところがあるから気を付けてね。」

 

と先日占い師さんに言われた言葉を思い出す。
反省した...。月並みだが人一人が見ている世界はかなり狭いのだ。


自分野の文献に目を通しても通しても同じところでグルグル解消されない悩みが、他分野の研究の話一つを聞くだけでスッキリきたりする。人は(特に私などろうそくの人は)多くのフィルター越しに世界を見るため、グルグルグルグル円環を回り、抜け出せないことがある。そんなときは、意味など深くは考えずに(色眼鏡を外して)自分の興味と異なることをするのも一つの手段なのだ。そうすると円環の淵に抜け穴があることに気付いたりするのだろう。

 

しかしまあ、この円環に居ると認識することが一番難しいのだけれども。
行き詰っているとき、まずはこの円環を捜すことから始める必要がありそうだ。

 

さすがに無理やり論理飛躍させた感があるだろうか。

あありんがーはっとりんがーはっと。

 

 

 

今日の晩御飯もリンガーハットにしよっと。

身勝手な聴衆と浅ましい長袖着-改「卑怯者論」

あつい


口を開けば皆すべからくそう言う。夏とはそういう季節だ。
この時期になるといつも思うことがある。それは夏の高校野球選手権大会に関することである。今年は明後日、8/6が開幕日だと言う。

私はスポーツ観戦があまり好きではない。理由は二つあり、一つは自分が実際に取組んだことのないスポーツにどうも関心が湧かずのめり込めない点にある。これまで中・長距離走、マラソンと呼ばれるようなスポーツにしか力を入れて取り組まなかった自分の経験がものを言っているのだろう。

もう一点は、聴衆の身勝手さに辟易してしまうからであり、それが今日のテーマである。具体例を出して話そう。高校野球の例である。



甲子園で熱戦に参加する高校球児は、この数年間、人によれば人生のほとんどの時間をかけ血のにじむような努力の上に、同程度の経験をした他の選手達に打ち勝ちあの場に立っている。そして日中35℃を優に超えるような炎天下の中、日本一を目指し、数時間の試合に連日挑むのである。
ここまでも私の想像であるが、きっと素晴らしいなんて言葉じゃ形容しがたいような、こんな短い文では説明出来ない練習・経験を彼らはし、あの場に立つ権利を得たのだと思う。

 

一方で多くの聴衆はと言うと、炎天下の中に身を置くわけでもなくクーラーの効いた部屋で冷たいものなんかを取りながら観戦しているのだ。置かれた環境の違いを言いたいわけではない。身勝手なのはその態度である。

私の父を例に出そう。ある夏、上と同様にパンツ一丁でソファに寝ころび高校野球を観戦していた父は例年同様大阪の高校を応援していた。ある選手がエラーをすれば「何してんねん、あほ!」打ち損じれば「あーー今のは打てたやろ!」と不満を垂れる。反面、選手がホームランを打てば「ようやった!さすがやで!」といった具合に評価の言葉を吐く。父は元高校球児であったわけでもなく、人生において本気で野球に取り組んだ経験はない。


これほど置かれた状況も環境も違う中、試合に参加する選手たちを好き勝手批判するのだ。なんと身勝手で浅ましいことか。全くもって主体性が欠如している上、選手たちへの敬意すらも見受けられない。正月に長袖を着てこたつに入り箱根駅伝に参加する選手に「もっと頑張れ!」と叫ぶ人なども同様である。さもしいものだ。

しかしながら、全ての聴衆がそうではない。試合を見るために始発の電車で甲子園に向かう人達、選手達の練習を長い間見守ってきた人びと、様々な形で野球と関わり、選手達に敬意を払い拍手を送る人びともたくさんいる。そのことを知った上で、私が辟易しているのは上で書いた父のような身勝手な聴衆なのである。

 

 

少し話は変わるが、友人が似たような話を書いていたので共有したい。

moji-village.hatenadiary.com

 

簡単に主旨をまとめると、
チャレンジャーV.S.チャンピオンといったジャンプシステム的な二項対立の外にある項、本来はスポットライトを当てられない、オーディエンスに着目し、その役割に立つならばマナーを守り試合の参加者に敬意を払うべきだという。

(彼の書く記事はもやもやした現実をどこかそのままに言葉にしていることが多い、面白いのでオススメである(宣伝...笑)

 

この話を更に次の段階に進めたい。
ここまで書いた「身勝手な聴衆」は彼の卑怯者論の中でいう、観客席で勝手な批評を送る卑怯なオーディエンスである。
そして、ここからが改「卑怯者論」である。

彼の卑怯者論を受け、私は観客席にはオーディエンスの他にも役割を持つ者達がおり、彼彼女らにはスポットライトを浴びるべき存在であるかもしれない、と主張しよう。


彼彼女らの役割名は「ライバル」だ。

 

既に話の筋が分かった方も多いかもしれない。
観客席には対戦への主体性を欠如し批判を述べるオーディエンスの他に、対戦を見て静かに闘志を燃やす者がいる。

スポーツ漫画で言えば、試合を観戦する歴戦の対戦校や別地区のライバル校であり、
ドラゴンボール天下一武道会で言えば、悟空とナムの試合を見守るジャッキー・チュンやギランのような存在であり、セルゲームにおいてセルと悟空の闘いを見る悟飯のような存在である。


彼らは物理的に試合に参加しているわけではないが、コロシアム・スタジアムに立つチャレンジャーやチャンピオンとの試合の記憶を頼りに、彼らの精神世界内でイメージを膨らませたり戦いを繰り広げている。

ここで重要なのは、コロシアム・スタジアムに立つ者と同等の経験があるということであり、同等の経験があるからこそそこに立つ者に敬意を払い、場合によっては屈辱感や劣等感を抱くのである。

同じクーラーの効いた部屋で野球観戦をする場合でも、野球に取り組んだことのない父と惜しくも地区大会で敗退した高校球児では、観戦の意味が全く異なるだろう。


もんじゃ(上の友人)は<304.卑怯者>の文中で自分をオーディエンスに該当すると話したが、改「卑怯者論」に当てはめれば彼は「ライバル」に該当すると私は思う。なぜなら、あの文章自体がチャレンジャーV.S.チャンピオンの構図に参加したい、という意図を(意識的か無意識的かに)示唆しているものであり、また文末に試合に立ちたい意志が明確に見えるからだ。

 

まとめると、物理的には

チャンピオン / チャレンジャー ///////// 観客

といった具合に見えるコロシアムの構図は、精神的には

チャンピオン / チャレンジャー // ライバル /////// 観客

というような構図に収まっている、というのが改「卑怯者論」である。

 


最後に参考までに全く別の考え方を紹介しておこう。コロシアムの構図そのものへの岡本太郎の批判である。岡本の著作が彼の逝去後編集された『美しく怒れ』において、
彼はジャンプシステム的な二項対立を、世界の何万分の一の人間だけが広い場所で誇らしげに身体を躍動させ、残りの99.99...%は見物人である、チャンピオンシステムと形容し、次のような批判を加える。

 

晴れあがった一日、緑の大地にわけ入ったり、自分の腕で球を投げ上げる。仲間同士で競争してもいい。一人一人が深呼吸するだけだっていい。そういう肉体の緊張と解放を総身に味わうよろこび。それは自由な精神の高まりでもあるはずなのだ。...[中略]...それなのに、数千万の人間、大衆の大部分が、テレビの前にあぐらをかいている。煙草でも吸いながら、ピッチャーの一球一球、バッターの振りに末梢神経をいらだたせ、眼だけはギラギラ。まったく非スポーツ的だ。肉体喪失である。[岡本 2011: 49]

 

この批判自体は私やもんじゃのオーディエンス批判とほとんど同様だろう。
しかし、岡本は同著の中でオルタナティブとして次のような構想を繰り広げる。

 

本当に、うまい、下手、弱い、強いをぬきにして、誰もが、何にでも、なま身で参加したいものだ。これは私の情熱である...[中略]...あんな立派な施設が、どうしてチャンピオンたちのためだけにあるのだろう。あれほどでなくてもいい。ただの猛烈な広場を作って、東京中、日本中、いや世界中の走りたい人がいっせいに駆けだしたら、どんなにすばらしいだろう。私の身体全体も何かムズムズしてしまうのだ。...[中略]...百メートルを十秒で走る人間はすばらしい。しかし、たとえ一分かかったって、力の限り駆ける豊かさ。自分より先に行く者は、「あいつは足が速いな。」と思えばいいのだ。それをどうして、遅いものは走らない、と決めてしまっているのだろう。[岡本 2011: 50-51]

 

この岡本オルタナにはオーディエンスが存在しない。競い合いの場である側面を持ちつつも明確なルールによる勝敗がない点から、コロシアムにおけるチャンピオン・チャレンジャーの順位付けが当てはまる性格のものでもない。参加者全員がライバルでありライバルでないのだ。


この思想に惹かれるのは私だけだろうか。確かに私は岡本太郎が好きだ。私の価値観の10%程は岡本の著作に影響されているようにも感じる。しかし、それを抜きにしてもこの言葉の持つ意味合いは形容し難い美しさがある気がする。


コロシアムのようなある基準に則り技術の最大限の向上を目指す場も、岡本オルタナのような誰しもが心身を躍らせる場もどちらもあればいいな、なんて薄っぺらい意見だけが私の頭にある。

どんな場でもいい。誰かに感情移入し精神を昇華するのではなく、自分自身のなまの生そのものを投げ入れ没頭し、自分自身を表現できる場が誰しもの手に届くところにあってほしい。それが私の希望である。

 

まあでも、これすらも岡本太郎の著作に依拠しているかもしれない、とどこか思うのだけれども。最後に、私にそう思わせる彼の言葉を引用してこの文章を締めくくろう。

 

 

代用の生きがいにうつつをぬかして、自分をごまかしてしまうのは空しい。なま身をぶち込み、賭けるのが、人生レースの本当のルールなのだ。[岡本 1998]

                             

 

参考

岡本太郎(1998)岡本敏子編『眼 美しく怒れ』チクマ秀版社.

岡本太郎(2011)『美しく怒れ』角川書店.

 

 

割れないシャボン玉になって、路端に転がって。

「長らくのご愛顧、誠にありがとうございました。」

 

 

これほど哀しい言葉が他にあるだろうか。

先日、先輩の勤務先の雑貨屋さんが閉店した。

同日、偶に覗いていた古着屋さんも閉店した。

 

eコマースの発展、C2Cサービスの普及により私達の消費生活は確かに便利になった。特に入手速度の向上は甚だしく、欲しいものが即日自分の元に届くことはもはや日常茶飯な事だろう。

更に言えば、近頃はVRコマースという言葉も使用され始めたようで、自宅に居ながらにして実店舗さながらに商品を選ぶ未来もそう遠くはないのかもしれない。

 

こういった流れの中で衰退が予測されるのが、実物、実店舗である。かなり平たく考えれば、小売卸売会社は拠点を最低限構え仮想空間に店を出せば、複数のテナントに家賃を払って店を構える必要がなくなるからだ。というか、場合によっては店舗は必要ない。

 

TSUTAYAなどレンタルDVD屋が減ったり、BOOKOFFが書籍以外の商材を推し出し始めたりと、こういった流れもECの荒波が押し寄せていることを示唆しているだろう。

 

それでは、この流れが進むと実店舗は完全に失くなってしまうのだろうか。

思うに答はおおよそ否だ(予想を超える文字通りのイノベーションが起これば実店舗が遺物になる可能性は十分にある)。

それは「触れられる」という実店舗・実物が持つ特性の強力さにある。

 

人間という生き物は触覚に多くを頼っている。

写真では判断できない絶妙な布地の触り心地、

ビビッときた文章を記憶する左手に感じる残りページの厚み、

意外とずっしりと感じる豚の貯金箱の重量感。

どれも実際に触れて実体の重みを感じなければ分からないものの良さだ。

 

また、触れることで大事な記憶を思い出すこともある。もしかしたら私だけかもしれない。

珪藻土のマットに触れ、教室の黒板消し吸うアイツのことを思い出したり、

レーヨンのシャツから婆ちゃんが昔着ていたワンピースが頭に浮かんで、婆ちゃんとの思い出に心を添わせてみたり。

思い返す必要があるかと言われたら明確に返す答はない。でも、これらの思い出に触れている瞬間、安心感と快さに心満たされる。

 

反面、実店舗が少なくなっていくことは避けられない部分も大いにある。学部時代、バイトしていた店舗が二件閉店し、尊敬するおっちゃんの古着屋さんも、関西で唯一私が好きなタイのメーカーの製品を卸している雑貨屋さんも、先輩のお店も、みんな閉店してしまった。

 

どの店もそれぞれすごく気に入っていたが、出会いはどれも偶然だった。ネットで探したり誰かに聞いてたどり着いた店は一つもない。

 

私が小売店や立ち飲み屋さん、喫茶店などが好きなポイントの1つはこういうところなのかもしれない。偶々"なんとなく"入ったそのお店の居心地が良く、店主さんや店員さんが素敵でお店から彼彼女らの思想が見え隠れする感じ。

これは目的を持って効率よく買い物をすることでたどり着く感覚ではきっとない。自分たちだけが知ってる素晴らしさ、エロさなのだと思う。また言葉を平易にしてしまった。

 

路端に転がる石ころにふと目をやるとなぜかムーミンの形に見えてきて嬉しくなり拾ったり、

河原の散歩の途中、ふと座った場所に偶然綺麗な花が咲いていたり、

そういう昔感じたことのある偶然性に似た感覚を感じることが出来るのもまた実店舗の良さなのだと思う。

 

さよなら好きだった2つの店舗。もっと触れたかったよ、偶々近くに行ったときにフラッと立ち寄りたかったよ。