数%のスーパー銭湯

日々考えていることを一部、なんとなく言葉にしておく

5分

5分で書いてみる。

 

何が書けるやろう

何が欠けるやろう

 

あああ

 

最近ハマってる言葉は「パチこく」

多分関西弁で「嘘をつく」ということ

 

「パチこくな!」とか「パチこいてんなー」みたいな用法で使う

下品さとなんか言いたくなる性を兼ね備えているのがええ

 

他にハマってる言葉は「眼球」

みんな持ってるけど語感がおどろおどろしいのが好印象!

 

「目疲れた」とか「目でかいな」とかは

「眼球疲れた」とか「眼球でかいな」にしたらなんでか笑ってしまいそうになるのがもう最高

 

あ、あと1分や何書こう

辛い時こそ人生笑うべきや

 

もうすぐ生活の場所が大きく変わる

人生で初めて欲しいネックレスが見つかった、人型を首からぶら下げたいのだ

 

眼球、パチこき。

コント。

地平線に沈む陽に背を向け

平行線を辿る課題から目を背け

 

いつもより少し遅い地下鉄で

いつものように現実逃避を図って

 

走る走る走る走る

 

駅名看板流れる 降車する駅に目もくれず

終点の乗車アナウンスで夜の街へ

 

外灯に湧く虫の様に磨きのかかった走光性で

薄暗い路地の向こう 灯るうら淋しい店に

 

 

「コント、将来に思い悩む若者達。」

 

 

胸中で囁き店内へ

定型句に知ったふりで頼んだそれを体内へ

 

麒麟と名乗る男と一人称が某のソレガシという男に 自分は本名を名乗り言葉を交わす

 

何をしたい?

 

と聞き飽きた問いに小さな夢と虚構だがよく出来た計画を少々語る

働く麒麟は少しの助言と幾らかの批判を投げかける

横目に無言で身体に毒を回すソレガシ

 

若い女を隣に微笑する中年と

カウンターの端で携帯をカチカチする青年とが見える店内

 

知ったかぶりした毒が体に回る頃 壁にかかったそれも0時を回る

明日も早いので とあるようでない明日を仄めかし出て行く人びと

どこまでもリアリティのない明日を抱える者だけが残る

 

朝まで とソレガシが口を開く

明日仕事 と麒麟

任せます と私

 

 

流れる流れる流れる流れる

 

 

気づけば丑四つ時のファミリーレストランに三人

デキャンターで注ぐ葡萄酒は今や水のようで

交わす会話は笑いの談義か女の話か

その全てに知ったふりをし見栄を張り軽口を叩き 何故だか澄み切った頭では自身の問題だけを考える

設定の俯瞰に逃げるとウケないのに

 

 

麒麟が仕事に向かった後

地平線から陽が昇る頃、無機質な改札前に男と私

男が言う

 

 

俺あっちのホームやからまたな

 

 

その言葉に返答はせず胸中で呟く

 

「いや、某ちゃうんかい、どうもありがとうございました。」

静寂でやかましい箱ん中

静寂の車内。眼で聴く。

 

ひとつの出会い、無限の可能性。

批判を疑え。

歩く、出会う、刺激を受ける。 

 

六甲山へは、便利でおトクなレジャーきっぷで‼︎

原則24時間土日祝でも振込OK!

あなたは、何に熱くなる?

 

最短30分審査。

正しい英語は信頼につながるから

バイト探しに近道を。

 

 

どれもこれも自己主張ばかり、騒がしい。

黙って淡々とせんかいや

せっかちな人よ

「好き」と「よく知ってる」「得意」は相関してて当然、みたいな雰囲気を感じるようになってから何かを「好き」と言うのが少し怖い。

 

その後に続く「何が良いの?」「どこが魅力なの?」という問いに答えたくない。

 

分からないのが嫌なんじゃない。
”なんとなく”好きなことに早急に答えを求められるある種の圧力が、
”なんとなく”にその場しのぎの形容をし、納得のいかないままに口に出す自分が、嫌だ。

 

「言葉にする」ってことは大事でしょ?

と言われることもある。

 

そんなときは

 

うるせえ、そんな重要性理解の上だ。自分のタイミングで言語化させろ、そもそも言語化するかどうか選ばせろあほ!とよく思うのです。

 

言葉にした途端に感じていたものが削ぎ落とされていく感覚、
なのに少し理解した気になってその”なんとなく”に対する興味が薄れていく感覚、


そういう少なからず覚えてしまう感覚を覚悟の上で、丁寧に丁寧にしっくり来る意味づけを行いたい。

 

 

 

ほな、一言で納得して口に出来るぐらいの力をつければええやんって??

 

 

 

 

 

 

言葉だけで全てを表現できると思うなよ。

新世界の喫茶店に一人

やってまっか?

若い老夫婦がカランコロンと扉を開ける。
やってますよ よかったよかったいやあ今日も暑いわあ
またナポリタン二つで はいいつものでー

 

慣れた足並みで入ってすぐの席に向かい合わせで座る二人。
シワ一つ無いくすんだストライプのシャツを着た老男は何も言わず煙草に火をつける。

明後日盆踊りやてえ 〇〇さんとこの△△ちゃんら 準備始めとったわ

頷きすらしない無言の男に老女は話を続ける。長年連れ添った夫婦とはこういうものなのだろうか。

 

店内には老女の話声とミキサーで氷を砕く音だけが点滅している。
先程注文したミックスジュースを作る音だろう。

 

 

 

―今日の〇〇投手の球は良く伸びていますね・・

 

 

もう一つ音があった。入った時から流れていた野球中継に私の耳は傾きはしなかった。
人間の五感とは都合のいいものだ。必要ないと判断すると途端に情報を遮断する。

 

はいミックスジュースです

また音がふと点いて消える。しばらく目の前に置かれた泡立つ薄黄色の液体に目をやっていた。

 

ふと目をやると高いヒールに短いスカートの金髪の若い女性がカウンターに座る。
五感はまた感覚を遮断する。自分のモノながら全く信用ならない。
オレンジ色の光がガラス張りの入口に差す。これから仕事なのだろうか。
女性は携帯電話から目を離さず指で注文する。この人は新たに音を点けることはしない。

 

 

泡立つドロドロした液体を口に含みながらページをめくる。
外でも家でも大差はない。結局は字面を追うだけの読書なのだ。
昔から点いては消えてを繰り返す物事への興味は最近は消える方ばかりだ。

 

 

カランコロン カランコロン

 

 

音が点く。また別の老夫婦が入ってくる。

いらっしゃいー宇治金時あるで~ 暑いねえお客さん全然こうへんわ今日は

珍しく店長さんから声をかける。きっと常連さんなんだろう。

 

あんた冷コーか?私はこおりにしよ思うけど

や わしホットしか飲まんもん お ええ打球やで入るんちゃうか

すぐ隣に座ったご夫婦。こちらのご老男はよく話す。そういえばアイスにはある略称はホットにはないな。ふと自分の方言への興味が点く。
手元に目線を戻すと読んでいる箇所が見つからない。まただ。目で字を追う間 頭の中は別のことなのだ。ここ三日ほどずっとこの様子だ。
三歩進んで二歩下がるなんて烏滸がましい。進んだ振りしてまた下がるなのだ。

 

おおきに 美味しかったで お金置いとくね~ またくるわ~

ナポリタンを食べていたご夫婦が出ていく。出ていくその折にご老男が口を開いた気がした。しかし何を発したか分からない。カランコロンにかき消されてしまった。

 

 

わあ おっきいねえこおり いただきます あこれお金

ホットがええで 汗かきながら何言うてんの

 

こちらのご夫婦は商品と交換する形で会計を済ます。
向こう側の若い女性は携帯から目を離さない。寧ろイヤホンなんかしている。
あの人は自分から五感を遮断してるな。と思いながら

「聞こえること覚えたいときは目つむるとええねんで」

という高校の同級生の言葉を思い出す。あいつは就活をせずにバンドを続けているらしい。卒業したのか休学したのかその辺のことは知らない。
昔からの夢に進むやつ、大学で見つけた新たな道に進むやつ、妻子を養うため好きではないが毎日汗水垂らすやつ。皆それぞれが持つ松明を頼りに進んでいる。風に吹かれて消えてしまったりしないのだろうか。弱いのは自分だけなのかもしれない。

 

 

お会計お願いしていいですか。

 

新しい音だ。レジの前に立つ女性の声は思ったよりも低くしかし澄んでおり整然とした物言いだった。勘定の仕方が皆違う。気付けば入店から2時間ほどが経ちなまぬるいドロドロがコップの底に残る。

 

明日新しい子来るわ 使える子やったらええけど

まあなんとかなるやろ 何言うてんの最近の子大概根性ないでほんまに

 

隣のご夫婦は何かお店を経営しているのだろうか。新しいか そうだ明日新しい本が届く。異国の地より取り寄せたお堅い本だ。何も進んではいない。あの本を買うと決めたとき点いていた火はすっかり消え果てもう点く気がしない。

 

しかし、きっと本は届く。きっとご老人は明日もナポリタンを食べにくる。若い女性は今頃きっと仕事をしているし、隣のご夫婦のお店にはきっと新人さんが来る。そしてあいつはきっとバンドを続けるんだ。

 

同じ場所でダラダラ足踏みしているのは自分だけなのかもしれない。進んだ振りをして少しだけ本を読んで少しだけ書きものをして少しだけ全うに生きている気でいるのだろう。

 

何を理由にしたって時は無慈悲に進む。当然だがそんなものなのだ。頭では分かっている。しかし動けない。動かない。火が点かないのか火を点けないのか本当は自分で分かっている。

 

音を探すのはきっと静寂が怖いからだ。静寂ほど煩いものはない。
なぜああも自分の声だけが反響し続けるのだろう。でもきっとどこかで立ち向かわなければならない。

 

 

「分かった気になり机に積まれた本だけが増える」
自分のことかのような文章ばかりに目がいく。意味は分かるようで分からない。有るようで無い。

 

 

 

カランコロン。

 

 

また店内に新しい音が点く

 

 

 

揚げ足取りが揚げ足になる

私は性格の悪い人間だ。
今から揚げ足をとる。そして只、私の価値観を用いて人の考えを否定しよう。

 

昨日、理想を置くことの効果はどの程度か?(あまり効果がないのでは?)という意の投稿をした。

iambe.hatenablog.com

 

この考えを投稿した背景の一つには、LINEでふと投げかけた同様の問いに友人が返答してやる!と言ったことがある。

彼からの返答が以下の記事だ。

moji-village.hatenadiary.com


主旨を三文でまとめると、


①理想を持たずしては小さな一つ一つの作業の意味を見失うため、人は淡々と目先の問題解決だけをこなすのには向いていない生き物であるように思う。

②しかし、<理想という病巣>で述べたように、理想には苦しみが伴う。

③だから両者をいい塩梅で使い分ける必要があり、理想のあるなしに関わらず強い軸(自分が成長したい、社会を変えたいなど)を持っていこう。

という話だと解釈している。

 

 

上記の考えに概ね同意である。
いくらかのレベルの理想がなければ、その時々の行動の意味を見失いかける。
そのため、理想が全くないというのは精神衛生上あまり良くない。
言うは易く行うは難しであるが、「いい塩梅」で理想から降ろした演繹的な意味づけと目に見える課題から帰納的に導いた意味づけを使い分け行動することが肝要である。

 

 

しかし、些細な点でいささか疑問が浮かぶ。ですので揚げ足をとる。

大きく2点に言及し、「大きな理想を持つ効果はなかなかに薄い」と主張しよう。

性格悪くて本当にすまない、もんじゃ君。

 

 

一点目に、人間は冷血にはなりきれないため、身近な問題解決を繰り返す方法には適していない、という主張である。

頑張る理由を明確にするために精神安定剤としての理想が必要だ。という理由づけがされている。

 

しかし、身近な課題を解決することこそ最も簡単な”成長”であり、達成感を直ぐに得られる「精神安定剤」ではなかろうか。私はそう思うのだ。

身近な課題解決の繰り返しと書くとどこか無機質で目的意識のない行為に思える。
しかしながら、ある課題を解決しようとする営みには大きな理想とは言わないまでも、小さな目標(〇〇が出来るようになる・分かるようになる)が付いて回る。何もマシンのように冷血になる必要はないのだ。これほどシンプルで頑張る”理由”が明確なことが他にあろうか。

 

目の前のスライムとモーモンを倒すために「大魔王討伐!」という理想が必要だろうか。「こいつを倒すことに”なんとなく”意味がある」と直感的に思う。そして小さな目標(この魔物を倒して経験値を得よう)を置き戦いに挑む。それだけで十分でなかろうか。

理想のあるなし如何に関わらず、レベルアップすれば自分が出来ることが増える。これを繰り返してレベル40やそこらになり、魔王の手下の中ボスを倒したあたりで、「あ、そろそろ魔王倒せるかもな」と思う。そしたら次の目標として「魔王討伐!」を掲げる。そんなもんな気がする。

 

これは私がどこか諦念に至っている部分が大きいのかもしれない(諦念は理想なしには定義できないという話はさておき、)。

 

 

 

二点目に、軸や強い意志(自分が成長したい!・社会を変えたい!)を持てば理想と現実のギャップに苦しむ修羅道もいくらか楽になる、と言う点だ。
言いたいことは分かったつもりでいる。しかし、私が「理想」の定義を簡単にすら示さなかったため、認識に齟齬を生んでしまった可能性がある。

思うに、彼の言う「軸」や「強い意志」も私の考える「理想」と大差ない。
つまるところ、双方「今の自分に出来るかは分からないが、達成したい目的」であるのだ。

 

この軸や強い意志の形成過程に思いを馳せてみてほしい。
すると、それらは自分の経験から帰納的に導かれた概念であることに気付くだろう。


「成長したい」とか「社会変えたい」と思うことは、何か大きな理想から演繹的に降ろして考えたものではなく、自分のこれまでの経験(人によるだろうが、敗北や不満)から出来た小さな目標を抽象化して大きな目的にしたものだろう。

 

つまりは、<理想という病巣>で書いたのと同じく、これからの思考・経験次第で十二分に変わり得るのだ。そんな大きな理想を掲げること自体にどれほどの効果があろう。

 

妄想に思いはせることもアイデアを生むために肝要だが、そこに固執して夢や理想を語るだけの人間になってはいけないと思うのだ。もんじゃがそうだと言いたいわけでは決してないが。

 

 

だが、大きな理想なくしてはダメだと近年多くの人が思い込み、行動する前に妄想し、しかし経験がないから納得感のある理想を帰納的に立て切れず、どこか疑問を持ちながら見せかけの意味のついた行動をし、架空の理想に虚無感を抱き、苦しくなる。

 

あまり手の内を明かしたくないが、こういった世を風刺したい欲が<理想という病巣>を書いたもう一つの背景にある。

 

 

 

 

小さい目標を立てて出来るだけ無理せず、目の前の課題を解決する。
そして自分の出来ることを増やし、時たま「あ、自分にももう少し大きなことが出来るかも」と手の届きそうな目標を描いてみる。


そうすれば、いつ手が届くか分からない・もしかすると永遠に届かない、大きな理想を掲げて無力感を感じすぎることも苦しむことも少なくなるのに。


イメージを膨らますのに夢を描く力は要るが、しんどくなって何もしなくなるくらいなら大きな理想を無理に持たなくていい。そいつに大した良い効果はないのだから。

 

 

 


そんなもんだろ、と丁寧な諦念を持ちながら”なんとなく”を重んじる私は、きっと現実に紐付きにくい「いいね!そうなったら素敵だね」話が頗る苦手なのだろう。

それをこんな形でしか表現できないのが悔しい。
もっとユーモアを持って面白いのにどこか突き刺さる、そんな”エロさ”を持った表現をしていきたいものだ。

 

 

そして、こうやって揚げ足をとってもきっと友人は一度受け止めてくれるのだ。
彼はきっとそういう心の広さを、背中の広さと共に併せ持っている。

なんとありがたいことか。

 

 

そんな打算的な揚げ足取りのこの投稿も、きっと誰かから見れば取りやすい揚げ足なんだろうな。

 

 

 

 

理想という病巣

目的地のころころ変わる旅行計画に時間をかけたいと思うだろうか。


ある国の中で行きたい地域が変わる程度ならば”楽しい”で済むだろう。では「香港に行こう」と計画を共に立てていた友人が、3日後には「いややっぱりロシアだ!」と言い出したらどうだろう。予算繰りやせっかく調べた観光スポットにも行けないと少しがっかりするだろう。しかしまあ、友人と行くならどこでも楽しいよねと自分に言い聞かせりゃ楽しい。それではそのまた3日後に「いややっぱ時代はアフリカだわ!ウガンダ行こ!ウガンダウガンダ!」と言い始めたらどうだろう。「この1週間は何だったんだ、時間もったいねええ」と多くの人が思うのではなかろうか。

 

 

今日したいのはこういう話だ。
「大きな理想を掲げることにはどれほどの意味があるだろう。」


近頃ツイッターなどのSNSでプロフィールに自分の肩書や目標などを明記するアカウントが多くなってきた。その中でよく見られる文言として「〇〇な社会の実現を」といった自身の問題意識が解消された社会を文言化したものがある。

社会問題を解決したいという心意気は立派なものだ。
誰しも「こういう問題なくなったらええな」と思うことはあるがなかなか行動に移せない。その解消のために自ら足を動かそうというのだから、こんなにかっこいいことはない。

しかし多くのアカウントが数か月~1年すると全く別の「〇〇な社会」の実現を目指すようになっている。当初言っていた問題意識が解消されたのではない、ただ彼ら自身の問題意識の向かう先が変わったのだ。

このように大きな理想というのは変化しやすい。
読者の皆さんも一年前二年前の目標を思い出し、今ご自身の掲げている理想や大きな目的と比べてみてほしい。きっと考えていることはかなり変わっているのではないだろうか。


理想が変化しやすいことは理想の立て方に大きく起因していると私は考えている。

①人間は理想を立てる際、演繹的に理想の社会を描き、それと現在の社会を比べてそのギャップを埋めるような理想・目的を掲げる。

②あるいは、帰納的に自分の出来ることから類推して理想・目的を立てる。


実際はこの双方を極とした振れ幅のどこかに位置するのだろうが、どちらかの局によりすぎると問題が発生する。

①の演繹的な方法で立てた理想というのは、多くの人から共感を呼びやすい。それは”世界平和”と聞いて多くの人間が悪くは思わないと同じで、ある種の共通善のようなアウトプットになりやすいからだ。
自分自身の経験を(ほとんど)反映しない只ロジカルに演繹的に降ろした理想は誰しも似たようなものだ。人間の思考レベルなど所詮その程度なのだろう。

 

 

そのため多くの者が②自分の能力・問題意識から帰納的に理想を立てる。しかし、自分が今後どのような能力を身に付けるかなど深いところまで想定するのはかなり難しい。

 


「〇〇大学合格!」と意気込んで当初やると決めた教材を全てクリアした人間など恐らくこの世にいない。途中でもっと緊急で対策が必要な別の課題を見つけたり、当初リストアップした教材に重複部分があったりするからだ。皮肉にもやり始めないと自分がどこまで出来るか見当もつかないのだ。しかし、多くの人間はやる前に計画を立てる。

 


だが、教材を終えてなくとも合格する人間も多く居るし、反対に不合格になる人間も多く居る。これには想定しきれないかなり多くの要因が関連しているが、恐らく「〇〇大学合格!」と掲げた理想はあまり影響を与えていない。なぜならその理想から降ろしたマイルストーンを踏み切ったものなど居ないからだ。


というのが私の見解である。そして
近年鬱っぽくなる人が増えてきていたり、”自己肯定感”が低いという言葉が一般化してきた原因のかなり大きい部分に「理想と自分のギャップ」があるように思う。
「理想を立てなきゃ!」と意気込んで意識的・無意識的に立てた理想、それから降ろした目的や目標に自分の能力が追い付かず、日々立てたノルマに届かず「ああ私はだめだ」「いつまで立っても理想の自分には近づかない」と無力感や劣等感を深刻に覚え始めるとだんだんしんどくなる。人から聞く話からも私自身の経験からも強くそう思う。

 

 

もっともっと対症療法的にその時々で浮かんできた課題を克服する形で小さな目標を立てたら良いのだ。
11月に海外でフィールドワークか、取ったデータの分析方法とデータ集める手段としての言語が弱いな、ベイズ統計と英語の話す聞く、ベンバの語彙やるかあ、じゃあ何から始めよっかなあくらいでいい気がするのだ。

 

大学院に居てよく聞く話が最初は皆”キラキラ研究”をしようと入って来て、実際調査に行き地に足の着いた研究課題に落ち着くという話だ。多くの学生が当初「国際協力がしたい!」「環境と人間のあるべき共生の形を模索したい」などと言い入ってくるが、結局どのように進めていいか分からない。それよりも調査でいざ現地に着くといかに自分が無力かを知る。

 

多くの論文だってそうだろう。論文では「はじめに」の次あたりで述べられる研究目的だが、実際は結果が出た後に後付け的に付けられたものが多い。というか調査結果と調査目的が相互に連関しているため、結果が出た後に目的自体に若干の修正が必要であるのだ。

 

そうであれば尚更大きな理想を立てる意味が分からなくなる。
小さいなんとなく明らかにしたい種を少しずつ少しずつ地道に探って自分なりの意味づけをし、それらを集めて何か普遍的(に近い)なことを言う。

研究の実態は今肌感覚で覚える感じではそんなところだ。

 

 

 

 

 

しかし、この文章自体が大学院に入学して数か月の坊やが書いているという点で、自分の感じる実態は根拠として薄すぎる。

更に言えば、私は大きな理想を持てないことにコンプレックスを抱いてきた人間である。自分の弱さを認めるなら只々自分を正当化したいだけなのかもしれない。

 

 

きっと演繹極に振り切った理想主義者には、

「理想が意味ないように感じるのは、君にロジカルに現実的にマイルストーンを設定する力がないだけ」と理想的な批判を浴びるのだろう......

 

性格悪くてごめんなさい。