東京こじろじろ

もすこしもろこし

雨降る朝に

―――「〇〇くん、6,700円!」

早朝5時、店員さんの声が聞こえる。朝までお酒を飲んでいた。

頭が痛い。こんなにお酒を飲んだのは久しぶりだ。

 

 

 

午後11時、帰路の途。たまにお酒を飲みに出る街の改札を抜けた。

「現実飛ばしたいねん、酒の種類とか味とかなんでもええねん」

酒の相手をしてくれるお兄さんがよく言うフレーズだ。たくさん酒の種類があるバーでなんて勿体無いことを言うんだと思っていた。

だが今日はその気持ちが分かった。現実から離れたかった。
最近研究の進捗が芳しくない。研究に向きあう時間をかなり増やしていた。しかし、考えども考えどもしっくりくる位置づけが見つからない。焦っていた。

「焦ったらあかんで、研究楽しむこころを失くさんようにね」

指導教員から言われた言葉だ。言葉通りに呑みこんではいけないと思った。なぜなら、それは5年間研究を続けるような、時間のある学生に向けられた言葉であるからだ。

現実を考える余裕がない状況に身を投じ、同時に身体の中に溜まった膿のような気持ちを吐き出せたら。そんなことを思って繁華街を闊歩した。方法はなんでもよかったが、飲酒という手段しか浮かばなかった。

 

いつもの飲み屋さんに入った。

「あ、〇〇くん!」最近よくみる店員さんだ。
お客さんは一人。いつもいるお兄さんや飲み友達の姿は見えなかった。
潰れるにはちょうどいい環境だ。

 

KOZUEという大好きなジンを頼んだ。
しばらくの間店員さんと会話を交わしたりお客さんの様子を観察したりしていた。
客足は絶えることなく、人人が入っては出てしていた。

飲み屋という環境は素晴らしい。目的は違えど様々な人が一堂に介し言葉を交わす。
本名を名乗らず通り名を使う人、職業を明かさない人も多く、ただ自分の好きなカルチャーやたわいもない話をする。
これといった趣味のない僕はこの場で人人を傍観しながら知らない話題を聞いているのが好きだ。また時に話に入り、普段出会わないような種の友人知人が出来るのがこの上なく新鮮でたまらない。

 

 

「今日はバッジもオーバーオールもしてへんねんなあ」

丑の正刻、隣に座った男に声をかけられる。

「久しぶりやなあ、なんか雰囲気変わったなあ」

32歳の営業職の人だ。僕は飲み屋で興味をもった人のプロフィールをよく覚えている。忘れられないという方が適しているかもしれない。

彼が頼んだウイスキーと同じものをロックでもらった。初めて飲む銘柄のそれは酒気が強く今の自分にはちょうどよかった。種類はどうでもよくたってアルコール度数は重要だなと呟いた。現実飛ばしたいんですと受け売りの言葉を吐く僕に彼は「ほな飲もうぜ」と付き合ってくれた。

「変な意味抜きにして人間の部位でどこが一番美味しいと思う?」「明日女装コンテスト横の店でやるらしいで、おれが可愛くしたろか?笑」

彼との面妖な話題は少しずつ僕を現実から遠ざけた。

 

カランコロンと戸の鈴が鳴く。

「おう、〇〇くんやん!あ、そや前言うてた分析の話やねんけどさ―――」

一気に現実に引き戻される。この人は僕の10こ上のあるメーカーで研究職をしている男だ。

 

半年前くらいから顔見知りだったが、2,3週間前に話す機会に恵まれた。

僕の研究対象は産業廃材を利用したおもちゃだ。当時、僕は廃電線や廃ケーブルから取り出したと思われるワイヤーの素材が何か気になっていた。
3か月もあった調査だが、おもちゃの基本的な特徴すらも完全には明らかに出来ていなかった。

「あ、それやったらEDX分析で元素量と種類はある程度特定できるで」
そんな中、この人は研究を進めるヒントをくれたのだった。

「実験器具、前は業者にお願いしたらって言うたけど、自分の研究科になくても他の工学系の研究室とかから借りられるんちゃうかな」

あ、ありがとうございます。指導教員が持ってるみたいですわ。
とてもありがたいアドバイスだが、今は多くを聞きたくなかった。先程覚えた酒を胸の前で回しながら笑顔で答えた。

 

素材が分かって何になるのだろう。僕は自身の研究の大きな目的、いわば研究の価値を言葉に出来ていない。3か月必死に目の前にあることを説明できるよう定量的にも定性的にもデータを集めたつもりだった。目の前にあることに躍起になった結果、自身の研究の意義をこれまでの研究の中に位置づけることを出来ずにいた。

博物館学におけるアートの捉えられ方、地場産業の形成や発展、職能集団の技術伝播伝承に関する研究、どの文献も自分の研究の固有性をクリアにするヒントを与えてはくれなかった。

 

シャンパンあけるか」

他のお客さんがおもむろに言った。店員さんの誕生日が近くだったのだ。

助かった。胸をなでおろして丁寧に分けられたシャンパンを口にした。

 

 

 

―――「1万円やから、大きい方が3,000円と、、はい300円!今日もありがとう!」

店員さんから受け取った釣銭をポケットに押し込みビルの外に出た。

薄暗い中、ぽつぽつと小雨が降っていた。コンビニでお笑いライブのチケットを払い戻し6,500円を得た。カップ麺と水を買い、露に濡れたガードレールの上でまだ硬い麺をすすった。

頬をしたたる雨が全身のけだるさと研究への悩みを洗い流してくれる気がした。

現実から離れることは出来ていなかった。飲み友達のお兄さんも仕事に対してこんな気持ちを抱いているのだろうか。ものに向き合うというのはときに楽しく、しかし結果が出なければこうも苦しいのか。

 

 

ぴちゃぴちゃぴちゃ。。

クリーム色の床にカップ麺と胃酸の混合物が広がる。

 

気付くとそこは地下鉄の車内。席に坐す僕は、床に吐瀉物を撒いていた。

やってしまった。乗客たちはこちらに見向きもしない。酔っ払いが土曜の朝の電車で起こすことなど今更目新しいことではないからだ。しかし迷惑をかける当事者になったのは初めてだった。

すぐに電車を降りた僕は駅員さんに事情を話し頭を下げた。

「終点の駅員に伝えておきましたんで、清掃してもらいますね。え、いや謝罪の品とか結構ですんで、誰にでも辛い時はありますよ。」「まだ顔色よくないですけど休んでいきはりますか?」

なぜこんな自分に優しくしてくれるのだろうか。
駅員さんへの感謝と、この年になって人様に迷惑をかけ何も償わない自分への情けなさが入り混じり、僕は嗚咽した。

 

最寄りの駅の改札をぬけた。時計の針は10時22分を指していた。
曇天と駅の静けさで気づかなかったが、いい時間だ。頭が痛い。たまに身体の底からこみあげてくる酸が心地悪い。
昔一人で来た人気のない公園のベンチに座る。側溝に反吐を散らしさっき買った水で流した。

 

――今日は動けないな。申請書は明日明後日で書ききらないとな。今日は構成の構想を...

 

吐けども吐けどもそこにあるのは現実だった。

研究への悩みは体内に溜まって吐き出せるような種のものではなかった。

それは、形の気に入らない自分の鼻や伸びなかった身長のように。現実のように。

いつまでも向き合い認識を変えることしか出来ない、そういった類のものなのかもしれない。

 

公園のブランコが揺れている。雨がカバンに飛んだ反吐を洗い流した。

耳にイヤホンをつけ2012年に解散したバンドの曲を聴く。

 

   死んでしまうということはとても恐ろしい 明日を真っ当に生きることの次に恐ろしい

 

俗世を独特に表現するボーカルの声が体内を廻る。

 

これが現実だ。向き合った先に逃避出来る余地が見つかれば。

そんなかすかな希望を頭の片隅におき、今日も僕は現実を生きることにした。